ご無沙汰しております。その後、いかがお過ごしでしょうか。
私はといえば、近頃は古い本を紐解いてばかりいました。埃をかぶった言葉の森を、当てもなく彷徨うように歩いています。誰かがかつて確かに抱いたはずの感情や思考が、インクの染みとなって静かにそこにある。それをただ、なぞるように眺めていました。
そうしていると、ふと、自分の言葉というものが、ひどく頼りなく思えてくるのです。世には無数の言葉が流れ、誰もが何かを語り、そしてそれは瞬く間に流されていく。その濁流の中で、私が選び取る言葉に、どれほどの意味が見出せるというのでしょうか。貴方が紡ぐ言葉も、私が紡ぐ言葉も、等しく宙に放たれて消えていくだけなのかもしれない。そう考えると、何かを語ろうとすること自体が、虚しい遊戯のようにも感じられます。
それでもなお、私たちは言葉を探してしまう。それはきっと、言葉にならない何かを、その輪郭だけでも伝えたいと願うからなのでしょう。貴方が胸の内に秘めている沈黙は、どんな色をしているのでしょうか。どんな響きを持っているのでしょうか。私はそれを知りたくて、こうしてまた、おぼつかない手つきで言葉を並べているのです。言葉と言葉の間に横たわる静けさ、互いにすべてを分かり合えないという事実。そのどうしようもなさが、かえって私たちを繋ぐ、ささやかな希望なのかもしれないと、最近は思うようになりました。
消費されていくだけの情報の奔流の中で、意味を持つことを放棄したかのような言葉の残骸の中で、本当に届けたい思いは、かえって声にならぬまま、心の奥底へ沈んでいくようです。もし貴方も、言葉に尽くせぬ思いを持て余し、その重みに少しだけ息苦しさを感じているのなら、私はその感覚を分かち合いたいのです。それは決して、同情や憐憫といったものではありません。
こうして何かを書き連ねることは、自分の未熟さを晒すようで、いつも少しばかりの決心を必要とします。ですが、この躊躇いや気恥ずかしさこそ、私がまだ何かを感じ、何かを信じようとしている証なのでしょう。そう思うことで、かろうじて自分を肯定できるのです。
長々と綴ってしまいました。またお会いできる日を心待ちにしています。その時は、貴方の言葉で、貴方の見ている世界の話を聞かせてください。