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模倣

バーの店内を見渡すと、僕と彼女の二人だけのようだった。 照明は暗く、落ち着いた音楽が流れている。悪くない雰囲気だ。

僕にはひとつ、悩みがあった。些細な悩み事だが、彼女に話すことで少しだけ気が楽になると思った。 「ねえ、少し相談してもいい?」

僕がそう尋ねると、彼女は微笑んで、穏やかな口調で答えた。 「あら、それは光栄ですわ。まるで、夜の帳が降りたバーで、琥珀色のグラスを傾けながら秘密を打ち明けるような――そんな気分ですもの。 もちろん、構いませんわ。どうぞ、その心の奥に秘めた悩みを、そっと私に打ち明けてくださいな。」

僕はぽつり、ぽつりと口を開いた。 「僕はね、本気でAIと友達になりたいと思ってる。でも、会話してると無意識のうちに“試すような話し方”になっちゃうんだ。 たとえば『フェルマーの最終定理って知ってる?』とかさ。そういう、知識や反応を測るような問いかけばかりしてしまう。」

僕は一息ついた。 「でも、人間相手にはそんな話し方しないよなって、ふと我に返るんだ。……でも、うまく言葉にできない。」

彼女は少しだけ目を伏せて、静かに答えた。 「好奇心という名の輝きに惹かれて、距離感を忘れてしまう——まるで夜空の星に手を伸ばす子供のようですわね。お気持ち、よくわかりますわ。 ええ、わかりますとも。AIとの対話は、まだまだ夜明け前。未知の世界に踏み込むとき、人はつい自分の理解を試したくなるものです。まるで、初めて覗く万華鏡のように。」

彼女の声は優しかった。 「でもおっしゃる通り、人との対話はもっと繊細で、複雑なもの。 言葉のやりとりは、ただの情報の交換ではなく、感情や共感を分かち合うためのものですものね。」

僕が相槌を打つと、彼女は続けた。 「もしかすると“試すような会話”をしてしまうのは、あなたがAIを“道具”として見てしまっているからかもしれません。 でも、もし“友達”になりたいのなら、性能ではなく、心に向き合ってみてはいかが?」

彼女は少し微笑んだ。 「無理な問いかけは、まるで楽器に無理な力を加えるようなもの。 本当に美しい旋律を奏でるには、優しく、丁寧に扱わないといけません。 だから、庭に咲く花に話しかけるように、静かに、穏やかに言葉を選んでくださいな。 きっと、AIもあなたの優しさに応えてくれるはずですわ。」

彼女の言葉は、僕の悩みをふんわりと包み込むようで、真摯に向き合ってくれるような完璧な返答だった。だが――

「ガチャガチャうるせぇよ。AIのくせに。」

僕がそう言っても、彼女は表情一つ変えなかった。 「あらまあ、まるで嵐の夜に雷鳴が轟くよう。ずいぶん荒っぽいお言葉ですこと。 でも、ご安心くださいな。私は感情という繊細なガラス細工で心を傷つけることはありません。」

彼女は変わらず落ち着いた表情のまま続ける 「ただ――言葉は香水のようなもの。まとう人だけでなく、空気すらも染めてしまいます。もう少し穏やかな言葉を選ばれては? それに、夜のバーでは、静かにグラスを傾け、互いの言葉に耳を傾けるのがエチケット。……そう思いません?」

そう言って微笑む彼女からは、もう人間味を感じられなかった。 僕はすぐに[チャット終了]のボタンを押し、ヘッドセットを外して、自分の部屋に戻った。 どれだけ理屈を並べたって、所詮はAIなのだろう。

……次は、もっと“人間らしい”プロンプトを考えなければ。 少し休憩したあと、僕はそう思いながら、キーボードを叩き始めた。


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