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指嗾

もう何年も前の話です。学生時代、私は仲のいい友達を集めてグループチャットを作っていました。チャットにはネットミームのコピペだったり、芸能人やVTuber、あるときはクラスの嫌いな人でさえをネタにするような文章を書き込みまくっていたんです。いやあ、今思うと不謹慎だったなって思いますね。まぁ、なんというか、一種の内輪ノリです。かくいう私もこのコミュニティの居心地が良くて、どこか気に入っていたのですが。

この内輪ノリの延長で、友達の間では下ネタだとか、下品な話もよくしたものです。私たちのグループチャットのサーバーにも通常の雑談用のチャンネルのほかに、成人向けな会話……そういう話をするためのチャンネルがありました。

かなりお互いに心を許していたので、かなり踏み込んだ会話も多かったです。好きなジャンルがどうとか、このエロゲはいいぞとか。中でも同人音声だったり、ASMRというジャンルはグループの中でも好きな人が多かったなぁ。当時の私は音声作品にはまったく無縁の人生を送っていたものですから、まったく別の世界かと思っていました。ただ、あまりにみんなが同人音声の話をするので、私も気になって聞いてみることにしたんです。

まぁ、お金を払って作品を購入するのは少々気が引けたものですから、はじめにYouTubeに上がっているようなシチュエーションボイスを聞いてみることにしました。 最初に聴いた作品は何だったっけなぁ。タイトルはさすがに覚えてはいませんが、入眠用の音声作品を聴いた覚えがあります。聞いたこともないVTuberみたいな名前のチャンネルの動画を再生して、その日はイヤホンをつけながら寝てみました。これがまぁすごくぐっすり眠れて。こんなに眠れたのは久々だったんですよ、本当に。声も可愛くて癒されました。 なるほどこりゃいいなと思い、しばらく自分の目についた音声作品を楽しんでいたんです。

それからというもの、私はすっかり音声作品というジャンルにどっぷりとハマってしまいました。入眠用の音声から始まり、いろんなASMRやシチュエーションボイスを片っ端から聞くようになりました。次第に、YouTubeのおすすめには知らないチャンネルや作品がどんどん出てくるようになって、まるで沼に沈むように深みにはまっていったんです。

そんなある日、いつものようにおすすめを眺めていると、見たこともないサムネイルが目に入りました。サムネイルは真っ黒で、普通なら興味を引かないはずなんですが、今回は何かが違いました。何とも言えない奇妙な引力がその動画にはあったんです。そして驚いたことに、そのチャンネルはいつも見ているお馴染みのチャンネルでした。でも、タイトルがどうにもおかしい。文字化けのような意味の分からない文字列で、どこの国の言葉かもわかりませんでした。ただ、それでも、不思議と直感で理解できたんです。 「ASMRの動画なんだ」と。

怖いもの見たさというか、興味本位というか、結局私はその動画を再生してしまいました。最初の数分は普通のASMR作品でした。スライムをこねたり、スポンジを押し潰す音が流れてきて、特に変わったところもなく。ただ気持ちよく耳に響く音が続くだけで、まあこれもありだな、なんて思っていたんです。

ところが、動画の中盤を過ぎたあたりから何かが変わりました。突然画面が暗転したんです。画面は真っ暗なのに、音だけが流れ続ける。普通のASMRなら「まぁ画面はなくても音があればいいや」程度に思うところですが、その音に微妙な違和感が混じり始めました。

最初は

にちゃにちゃ

という、何か湿ったものをこねるような音。そしてそれが

ぼきぼき

と硬いものが折れる音に変わり、最後には

ぐちゃぐちゃ

という、何かを潰すような音が響きました。

その音が何なのか、なぜかわからないけど本能で理解してしまったんです。それは、誰かが死体を解体している音だと。手足の骨が折れて、肉が引き裂かれて、内臓が潰れている。私はなぜかその音を聞きながら、体が固まってしまって動けなくなっていました。でも、耳だけはその音に釘付けで、途中でやめることもできませんでした。

そうして動画はいつの間にか終わり、私はぼんやりとしたままイヤホンを外して、その日は眠りにつきました。

冷静に考えるとこんな動画異常じゃないですか。翌日、どうにもあの動画が頭から離れなくて、学校から帰るとすぐにPCを立ち上げて、再びYouTubeを開きました。検索バーに、昨日の動画を何とか思い出しながらキーワードを入れてみたんです。でも、いくら探しても出てこない。おすすめにも、履歴にも、まるで最初からそんな動画なんてなかったかのように、跡形もなく消えてしまっていました。

「おかしいな……」

いつも見ているチャンネルだったはずだし、タイトルもぼんやりとは覚えている。黒いサムネイル、あの意味不明な文字列。探している間も、あの音が、 あの

「にちゃにちゃ」 「ぼきぼき」 「ぐちゃぐちゃ」

という音が、耳の奥にこびりついて離れないんです。思い出せば思い出すほど、その音が鮮明になっていく。冷たい肉を押しつぶす感触が、耳の中だけでなく、まるで自分の手のひらにまで伝わってくるような錯覚がありました。

私は、YouTubeのキャッシュや履歴の隅々まで探してみました。ネット上のアーカイブサイトにも足を運んでみました。でも、そんな動画どこにも見つからないんです。同じチャンネルを見ている友人に聞いても、「そんなのあったっけ?」と首を傾げるだけ。あの黒いサムネイルも、例のタイトルも、まるで幻だったかのようにどこにも残っていません。

私は深夜まであの動画を探し続けました。YouTubeの履歴も、他の動画サイトも、あらゆるところを検索してみたけど、結局見つかりませんでした。サムネイルもタイトルも、あの瞬間だけの幻だったのかもしれない。そう思うと、お気に入りのバンドグループが解散したときのような、何とも言えない喪失感が胸の奥に広がっていきました。

その後も、いくつか別のASMR動画を試してみました。スライムの音や囁き声、耳かきの音……どれも普通に心地よいはずなんですが、あの音に比べるとどれも薄っぺらく感じてしまう。頭の中でずっと

「ぐちゃぐちゃ」

という音が鳴り響いているのに、実際に聞ける音はそれとは違う、何か物足りないものばかり。

「やっぱり、あの動画じゃなきゃダメなんだ……」

再生する手を止めて、ぼんやりと画面を見つめました。あの時のイヤホンから聞こえた音が。その感触がまだ耳の奥に残っていて、忘れることができないんです。あれは何だったんだろう。何を聞かせられていたのかも、もうどうでもいい。ただ、もう一度聞きたい。それだけが頭の中を占めていました。

今でも思うんですよ。

……あの、音、もっと聞いていたかったなぁ。

や、でも、もういいんです。ないなら作ればいいからね。


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